
教科書以前の学びが差をつける。生活体験と文化資本(P. ブルデュー)から考える学力問題
教師を目指されている学生さんに、ストウ夫人の名著『アンクル・トムの小屋』をご紹介しました。この作品には「黒人奴隷を美化しすぎている」といった批判もありますが、私はやはり、こうした作品を読んでから教壇に立ってほしいと願っています。
「なんとなくな知識」が学力の土台になる
アメリカの南北戦争については、主に中学校の歴史で学びます。その際、『アンクル・トムの小屋』を読んでいる子とそうでない子では、理解の仕方が全く異なります。
小学生の読書としては、背景にあるキリスト教信仰などは十分に理解できないかもしれません。それでも、「家族と離れ離れに売られていく人がいる」「理不尽に殴り殺される現実がある」といったことを漠然と知っておくことには、極めて重要な意味があります。
生活や読書を通じて時間をかけて学んだ「土台」があり、それを整理して系統立てるのが学校の授業や教科書です。今、子どもたちの学力低下が深刻なのは、この「土台となる生活体験・読書体験」の欠如に端を発しているのではないでしょうか。
教員採用試験と「文化資本」
この問題は、教員採用試験を受験する学生にとっても同様です。土台がある学生は参考書で独習でき、問題集も短時間でこなせますが、土台がない場合は理解に途方もない時間がかかります。
このアイディアの背景には、ピエール・ブルデューの「文化資本」の考え方があります。読書や知識に限らず、生きていく中で身につけた教養(体験的習得)と、後から努力して身につけた系統的な教養とでは、文化資本として明確な違いが生じます。
前者がブルジョワ的、後者がプチブル的とも言えますが、今回の例で言えば、『アンクル・トムの小屋』を読むことが体験的習得であり、歴史の授業が系統的な学習に当たります。
「教える側」の要求に従うだけの学びを超えて
学び方の違いは、学びの質そのものも変えてしまいます。ここでレイヴとウェンガーの言葉を引いておきましょう。
正しい実践はかくあるべしという形での指示的教育(directive teaching)が(学校での)実践のある制限された形態を生み出し、学習の機会の正当な源泉としての、進行中の実践への参加を先取りしてしまうことで、教える側で課する要求に従うことを目標にするということが、本来意図されたのとは異なる実践を生み出してしまうのである。(レイヴ・ウェンガー 1993:78-79)
学校教育(プチブル文化)が肥大化することは、単なる「指示に従うだけの学び」を増やし、文化の質を低下させてしまう側面もあります。だからこそ、私はただの物知りとしてではなく、ブルデューのいう「体験的習得」として作品に触れてほしいと思うのです。
まとめ
日々の生活を丁寧に生き、人との関わりを大切にし、本を読む。こうした「生きることそのもの」が学習の土台となります。その土台があってこそ、教科書の知識はすっと頭に入ってきます。
南北戦争を知識として教える前に、一冊の本を通じて自分の世界を広げておくこと。学生さんには、そうした血の通った「もののわかり方」をしてほしいと願っています。
引用・参考文献
- ブルデュー、石井洋二郎訳、1990『ディスタンクシオンⅠ・Ⅱ』藤原書店
- レイヴ・ウェンガー、佐伯胖訳、1993『状況に埋め込まれた学習――正統的周辺参加』産業図書