
「他人の発表を聞く時間は無駄」なのか? 自分で考える力を育てるゼミナールの本質
キャサリン・ブルートンの児童文学『シリアからきたバレリーナ』から、今回も教育の細部について読み解いていきたいと思います。(シリア難民という本作の主題に関しては、別の記事をご覧ください。)
自分向けの特別なレッスンをしてもらえないと不満顔の生徒キアラに対し、先生(ミス・ヘレナ)がこう語りかける場面があります。
「ダンスの世界では、いつだっておたがいから学ぶことができるのよ」 ミス・ヘレナは、キアラの抗議を手ではらってしりぞけた。「ほかの人がダンスを作りだす過程をしっかり見ておくの。その人の物語をきいて、どうやってダンスで語るのかを目でたしかめるのよ。さあ、アーヤ、はじめましょう」(ブルートン[2019=2022: 147])
「ほかの人が作りだす過程から学ぶ」。 この言葉は、大学院などでの「研究論文の執筆指導」においても全く同じことが言えると、深く頷かされました。
■ 直接指導は「自分で考える力」を育てない?
研究論文の指導は、たいていゼミナール形式で行われます。もちろん個別指導もありますが、本当の意味で「学生の力を伸ばす」という効果の面では、ゼミナールには及びません。
実は、自分自身が直接「こうしたらいいよ」と指導されている時、人はあまり成長していません。 直接的なアドバイスをもらえば、言われたとおりに修正することで論文の「結果(質)」はすぐに向上しますし、指導を受けたという高い満足感も得られます。
しかしそれは、「言われたことをこなす能力」が発揮されただけで、「自分で何をすべきか考える力」が育ったわけではありません。個別指導は一見効率が良いように見えて、自立した執筆能力の向上には結びつきにくい側面があるのです。
■ 他者の試行錯誤を「観察」することで力がつく
一方、他人が指導を受けている場面に立ち会うのは、全く状況が異なります。
「なるほど、あのようにテーマを設定するのか」 「あの章立ての作り方は論理的だ」 「あんな文献の引用の仕方は避けるべきだな」
他者の試行錯誤を自分の目で客観的に観察する中で、テーマ設定や構成、文献の扱い方を学びとることができます。そうして得た気づきによって、自分の頭が以前よりも「ちょっと賢く」なるのです。
その賢くなった頭で、今度は自分自身でテーマを見つめ直し、構成を練り、文献を選ぶ。こうして「自分で」やっていくプロセスを経て初めて、本物の力が身につきます。 教師の指示通りに動くことと、自分の力で歩むことは、全く別のことなのです。
■ 「お互いから学ぶ」が機能しない時代の到来
しかし近年、この「お互いから学ぶ」ためのゼミナールが、なかなか機能しづらい時代に入ってきたと感じています。
直接自分の論文が指導されている間は「有益な時間」だと思えても、他の方の発表を聞き、指導の場に立ち会う時間を「無駄」だと捉える感覚が、当然のものになりつつあるようです。
私が大学院にいた頃でさえ、終盤になるとゼミが機能しなくなる予兆はありました。自分の発表日には出席しても、他の方の発表日には(全部ではなくても)ちょくちょく欠席する人が、一人、また一人と増えていったからです。
■ 効率化が奪う、最も豊かな学びの機会
大学院生は常に時間に追われ、精神的にも追い詰められています。 「他人の発表を聞く時間があるなら、少しでも自分の文献を読みたい」。その切実な気持ちは痛いほどよくわかります。
しかし、その「効率化」が、実は最も豊かな学びの機会を逸することに繋がっています。 他者との関わりの中でこそ自分の思考も深まっていくということに、切羽詰まった状況にいる学生さんはなかなか気づくことができません。
「お互いから学ぶ」という相互作用の場が失われつつあることは、教育に携わる者として本当に残念なことだと思います。これから論文を執筆される方々には、ぜひ「他者の過程から学ぶ」ことの価値を再認識していただきたいと願っています。