宗田理さんの「ぼくら」シリーズ、ポプラ社版、全部読み終えてしまいました……。あとは、角川つばさ文庫版、オリジナルのものが残るのみ。あと少ししかない……大切に読まなくては。
「ぼくら」は、友、仲間のためなら……と多くの冒険、救出作戦を繰り広げています。
その原型は、『ぼくらの(危)バイト作戦』でしょうか。療養中の父親に代わってアルバイトで生活を支える安永くんを助けようと、「ぼくら」は動きます。
そのときのことを相原くんは、『ぼくらの学校戦争』の中で「おれたちは、おまえを助けるためにやるんじゃない。遊びさ。遊びなんだから気にするな」(宗田2011:136)と言っています。
また、『ぼくらの失格教師』では純子さんが、「わたしたちって、だれかのお役に立ちたいからやるんじゃないの/よ。面白いからやるの。面白いと言えばみんな乗ってくるわ。それはわたしにまかせて。だからお礼なんて要らないわ」(宗田2003:30)
自分のために何かをするのではなく他者のためにという利他、自己犠牲、そして、ノブレス・オブリージュ(nobless oblige)というと、道徳的に「正しい」ように思うのですが、「あなたのためにやっている」というのを見せるのは、なんとなく嫌だなあと思っていました。
「ぼくら」は、「遊び」「面白い」でこの一線を超えています。「利他」として「自己犠牲」をアピールするよりも、私は好きです。
そして、もう一つのこの一線の超え方を内田樹さんの「道徳の本」で学びました。「道徳的なふるまいにおいてたいせつなことは、「その気づかいが人に知られないようにする」ことです」と内田さんは書かれています。
「いいこと」をしても、黙って、そっと立ち去る。そしてそれが、「タイタニック号の救命ボートの最後の一席」を譲るようなときには? それは考えてできることではなくて、身体にしみついた習慣が「どうぞ」と言わせるのだといいます。
外から見たら、熱い友情、深い道徳であるような行為は、意識してそうなろうとした結果なのではなくて、「遊び」や「習慣」であった……そういうものなのではないでしょうか。
最後に内田さんは、どうしたら「お先にどうぞ」と言えるか、そういう習慣が身につくようになるのか、書かれています。
それは、幸せな人生を送る、ということだそうです。
十分に幸せに生きていれば、「もう十分幸せだったから」と自然に「お先にどうぞ」と言えるようになる、と。
そして、これは書かれていなかったのですが、私はここで、村上春樹の「小確幸」(小さいけれども、確かな幸福)(村上1996:126)を思い出しました。
毎日「小確幸」を感じて生き、「お先にどうぞ」をすっきりと言え、できるだけ(知られないように気づかいをして)「ありがとう」と言われないようにしたい、と。
文献
宗田理、1989『ぼくらの危(ヤ)バイト作戦』角川書店
宗田理、2003『ぼくらの失格教師』徳間書店
宗田理、2011『ぼくらの学校戦争』角川書店
村上春樹、1996『うずまき猫のみつけかた』新潮社